理性に寄せる愛の難ープラトン『国家』(藤沢令夫・訳)

⑴ 読書の背景

 哲学を始めようとするに当たり、藤本隆志『哲学入門』はよい入門書でしたが、もちろんそれだけで哲学的論点について検討ができるようになるわけではないでしょう。哲学という営為に不慣れである現状では、思考のとっかかりというか、そういうものが欲しい気がします。既存の議論を検討することは、そのような「とっかかり」として便利なものであるように思います。

 また、認識論や存在論ではなく、より倫理学的・価値論的な方向に自分の関心が向いているのではないか、という感触は得られましたが、より具体的な関心の方向性についても確認していきたいところです。

 これらを踏まえると、当然、過去の哲学者たちがどのような議論を展開してきたのかをおさらいすべき、ということになります。その方法としては、哲学史の本を通読することがあるいは手軽なものであるのかもしれません。しかし、上記のとおり「思考のとっかかり」を希求する場合、哲学的議論の通時的要約より、個別具体的な哲学書における議論の方が、より「とっかかり」として使いやすいのではないか、という気がします。また、実は若い頃に哲学史の本で哲学を概観しようとしたことがあるのですが、議論の理解、頭への定着、いずれも惨憺たる結果に終わってしまいました。

 よって、当面の勉強の方法として

① 自分の書棚にある原典を時系列順に読んでみる

② 時代・地域等による大まかな区分(例えば古代ギリシャ)に属する原典を読み終えたら、その区分に関する総合的な研究書に当たる

の2ステップを古代から現代に至るまで繰り返すことに決めました。

 中国やインドといった古い文明における思想も検討のスコープに含めるべきなのでしょうが、残念ながら現時点で私の書棚には関連書がありません。となると、さしあたっては古代ギリシャー特に古典を遺したプラトンアリストテレスが出発地点となりましょう。まずはプラトン、分量の観点からも、議論の著名度の観点からも、主著と位置付けられる『国家』(岩波文庫版)からです。

 

⑵ 本書の概要

 著者による目次はありません。岩波文庫版には、その冒頭に議論のまとまりによって区分した構成が付されています。しかし、より大まかな構成としては、訳者による解説で言及されたものが分かりやすいように思います。すなわち、本書では「正義論ー国家論ー哲人統治者論の根拠としてのイデア論ー国家論ー正義論という配置」(下巻487頁)にて議論が展開されるのであり、その中でプラトンは、師であるソクラテスの風味が漂う議論から発し、やがて彼独自の思想により議論を一層発展させようと試みているのです。

 本書における議論は、ソクラテスの口を借り、その知己である若者たちとの対話を擬して進められていきます。そこでは、正義とは何か、それを実現するために必要なものは何か、正義を実現することにどのような価値があるのか、といった論点についての検討が行われます。以下、上記の構成を「正義論Ⅰ-国家論Ⅰ-イデア論ー国家論Ⅱ-正義論Ⅱ」と略記し、各要素を要約しながら、この議論を追ってみます。

 まず、正義論Ⅰにおいては、正義の定義についての問答が行われます。その中では、「それぞれの相手に本来ふさわしいものを返し与える」(上巻30頁)こと、「強い者の利益になることを行うこと」(上巻57頁)といった定義が提示され、これをソクラテスが論駁します。

 次に、国家論Ⅰでは、正義論Ⅰでは結局のところ明らかにならなかった正義の定義を明確にする試みが始まります。その方法論としては、「より大きなもののなかにある<正義>のほうが、いっそう大きくて学びやすい」(上巻130頁)ことから、まず国家の正義を考え、その結論を個人の正義に援用するやり方が提示されます。そして、理想的な国家のモデルが検討され、知恵、勇気、節制、正義という4つの徳が定義されます。このうち正義とは、国家を構成する3種族たる「金儲けを仕事とする種族、補助者の種族、守護者の種族が国家においてそれぞれ自己本来の仕事を守って行う」「本務への専心」(上巻302頁)を意味します。プラトンは、このような国家の徳についての考え方を個人の徳へと援用すれば、個人の魂を構成する3つの要素ー理知的部分(支配者たるべき部分)、気概の部分(支配者の支援に当たるべき部分)、欲望的部分(前二者から監督されるべき部分)が「自分の内なるそれぞれのものにそれ自身の仕事でないことをするのを許さず、魂のなかにある種族に互いに余計な手出しをすることも許さないで、真に自分に固有のことを整え、自分で自分を支配し、秩序づけ」ること(上巻329頁)こそ、個人にとっての正義であると言います。そして、このような理想的モデルを可能な限り近似的に実現するためには、「哲学者たちが国々において王となって統治する…あるいは、現在王と呼ばれ…ている人たちが、真実にかつ十分に哲学する」(上巻405頁)ことが必要条件とされるのです。ここで言う哲学者とは、「美」「善」のような個物を超えた抽象的概念(イデア)を追求し、十分に理解することを愛してやまない者を指します。

 そして、プラトンは哲人統治論を根拠付けるイデア論へと筆を進めていきます。そこでは、統治者が学ぶべき最重要の事項は「善のイデア」とされています。では、「善のイデア」とは何か?ここで用いられるのが所謂「太陽の比喩」です。すなわち、「思惟によって知られる世界において、<善>が<知るもの>と<知らないもの>に対してもつ関係は、見られる世界において、太陽が<見るもの>と<見られるもの>に対してもつ関係とちょうど同じ」(下巻82頁)であり、「認識される対象には真理性を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが、<善>の実相(イデア)」(下巻83頁)であり、「認識の対象となるもろもろのものにとっても…あるということ・その実在性もまた、<善>によってこそ、それらのものにそなわるようになる」(下巻85頁)のです。

 プラトンは、このような「善のイデア」をはじめとするイデアの追求こそが、真理に最も近付くことができる方法であると言います。ここで用いられるのが「線分の比喩」であり、人間による認識・思考の明確性は①影像の認識、②個物の直接的な知覚、③仮説から論理的に結論を導く学術的思考、④仮説から始原的な真理への遡上を追求する哲学的思考、の順に高いことが説明されます。そして、人間、特に哲人統治者を段階④に至らしめるための教育を描写するために「洞窟の比喩」が導入され、①洞窟の中で影像を見る、②映像の元となるものを見る、③洞窟から出て外の世界を見る、④外の世界に関する認識を生む原因たる太陽を見る、という、前述の①~④の各段階と対応する説明が行われます。そして、哲人統治者は、最後の段階④に至るまで教育された後、洞窟の中に下り、段階①にある者たちを導かねばならないとされるのです。また、段階④に至るための教育は、思惟のみによってイデアを把握せんとする哲学的問答法(ディアレクティケー)によって完成されると言います。

 以上の議論を通じて、理想的な国家のモデル、その中で実現される正義のあり方、そこに近づくために必要な知識といったものが描き出されました。これらを踏まえた国家論Ⅱ・正義論Ⅱでは、モデルとは異なる形態の国制とモデルとの比較を通じ、正義と幸福との関係が論じられています。プラトンは、ある国の国制が、哲人が統治する優秀者支配制から、名誉支配制、寡頭制、民主制、僭主独裁制へと移りゆくさまを描写した上で、各国制に対応する人間の幸福・不幸を国政のあり方から考察しています。そして、正義が実現される優秀者支配制に対応する人間が最も幸福であり、最も不正な僭主独裁制に対応する人間が最も不幸であることを示しています。続いて、理想的な国家の建設における詩人の地位をイデア論に基づいて考察し、詩人はイデアからかけ離れた似像を描けるのみであることに加え、魂に不適切な作用を及ぼす存在であるから、理想的な国家から彼らを排除すべきと断じます。最後に、魂不死説が導入され、魂が歩む永遠の道程において正義の報酬がもたらされる旨が寓話によって説明され、本書における長い議論は幕を下ろします。

 

⑶ 本書の評価

 プラトンがここで展開している議論は多岐に亘ります。正直に言えば、一読してその全容をつかめているとはとても思えません。例えば、イデア論を理解しようとすれば本書の記述だけを読んでも到底不十分であり、この前後に書かれた他の本を参照しなければならないのでしょう。

 したがって、まずは本書中の議論が狙いを定める本質的部分に焦点を当てる必要があります。そして、私は訳者が「国家論を通じて<正義>の何であるかを問い、それと幸福との関係を問うこと、これが…本篇の中心テーマであるといわなければならない」(下巻468頁)と指摘する点は正しいと考えていることから、ここでは正義論の根幹をなす議論に着目したいと思います。すなわち、魂の三区分説です。

 ⑵で述べたとおり、プラトンは魂を理知的部分、気概の部分、欲望的部分の3つに区分し、理知的部分の支配を前提として各部分が自分の役割を果たし調和・秩序を保つことが正義であるとしています。この議論には色々な指摘が可能だと思いますし、これまでに多くの問題点が論じられてきたことでしょう。私が感じたのは「三区分説を前提にしたとして、理知的部分は本当に支配者たり得るのか?」という疑問でした。

 私の疑問は以下のようなものです。上記のような正義を体現する者として本書で想定されているのは、国家の理想的なモデルに近似した国制の実現に不可欠とされる哲人統治者です。彼または彼女は、哲学的な思索を通じて「それぞれのものについて、それ自体としてあるところのものに愛着を寄せる…<愛知者><哲学者>と呼ばれるべき人々」(上巻425頁)とされています。個別の具象に右往左往することなく、その背景にある抽象ー要はイデアの探求を愛する人々、ということでしょう。その探求に必要な能力は、もちろん理知的部分に属すると言い切ってよい。では、それを愛する性向はどの部分に属するのでしょうか?

 プラトンは「魂がそれによって理を知るところのものは、魂のなかの<理知的部分>と呼ばれるべきであり、他方、魂がそれによって恋し…その他もろもろの欲望を感じて興奮するところのものは、魂のなかの非理知的な<欲望的部分>」(上巻318頁)と言います。この定義を単純に適用すれば、「愛する」という性向は欲望的部分に属しているようにも思えます。もしそうだとすると、正義の実現にとって最も重要な「知恵の愛求」という営為を規律しているー少なくとも理知的部分と同等の支配力を持っているのは欲望的部分、と言わなければなりません。なぜなら、知的な能力を十分に備えている人であっても、それを愛し、熱中するのでなければ、哲学者とは言えないのですから。

 この主張に対しては、次のような反論があるでしょうー「愛する」という字面に引きずられると欲望的部分の支配という結論に至ってしまうが、その性向は理知的部分の補助者である気概の部分に属するものである。しかしそうであれば、今度は気概の部分が支配の座、少なくとも共同支配者の地位を獲得することになります。では「愛する」性向も理知的部分に含めればよいのではないか?そうすると理知的部分が魂を支配すると言い切れるでしょうが、今度は気概の部分という存在が不要になるでしょう。

 結局のところ、「ある部分が全体を支配する」という考え方が問題なのかもしれません。そもそも私は三区分説には否定的で、自我ープラトンが言う「魂」と同義と言ってよいと思いますーは、理性・欲望で構成される意識的部分とどのような構成になっているか分からない無意識的部分のそれぞれに外部からエネルギーが供給される、といった姿をしているように思っています。ただ、このような考え方を採るにせよ、魂三区分説を採るにせよ、本来的には複雑なシステムーこの場合は脳や人体との関係を決して切ることができない魂、あるいは自我ーを思弁的に分析して幾つかの構成要素に整理する際、全体のシステムが一つの構成要素によって律され、支配されるという議論が成り立つことはまず無いのではないか?一時的に少数の構成要素が大きな影響力を獲得することがあっても、それはシステムの性質として位置付けられるほどに基本的なものではなく、あくまで全体の相互作用とバランスこそがシステムを律しているのではないか?こういった思想が、おそらくはプラトンの主張に対する私の疑問の根底にある気がします。

 詩人追放論やイデア論から受ける印象では、プラトンが理性に寄せる愛はことのほか強かったのでしょう。それがために本書では魂が三つに分けられ、理性に他二者を統べる王座が与えられているのかもしれません。しかし、理性とは別の部分から理性に及んでくる影響を強く実感し、そしてその影響が人生によい影響を及ぼしてくれるー自分も体験し、そして多くの人も体験するであろうこういった感覚を考慮に入れる時、この正義論に普遍性を認めることは難しい、これが私の結論です。

 

 

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)