言葉が彩る二項対立ーソフィア・サマター『図書館島』

※以下、小説の詳細な内容に関する言及があります。

 

⑴ 読書の背景

 私はこれまで、さほど多くのファンタジー小説を手に取ってきたわけではありませんでした。あくまで指輪物語ハリー・ポッターシリーズのような有名な作品を読んだに留まり、したがってファンタジー小説の分野を知悉しているとは到底言えません。

 しかし同時に、ファンタジー小説を読む時、私はしばしば他の小説と比べて強い没入感を覚えていた気がします。動物ファンタジーの名品、斎藤惇夫冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』で子供の頃に何度涙したことか。そしてアーシュラ・K・ル=グウィンの作品たちー小学校の図書館で偶然『影との戦い』と出会い、たちどころにアースシーの世界へと引き込まれて以降、ゲド、魔法、竜、そして多島海の人々が構成するあの物語群をどれほど読み返したことが分かりません。

 その後、ファンタジー小説に関する様々な本、例えばル=グウィンの『夜の言葉―ファンタジー・SF論』などを読み、人が没頭できる魅惑の世界の提示だけでないより広範な意味合いがファンタジー小説にはあり得る、ということはそれなりに理解しているつもりです。しかし、やはりあの没入感は癖になる。今回、本書の書名を偶然インターネットで見かけ、注意を惹きつけられた時も、私の第一の期待はそこにあったと言ってよいでしょう。

 

⑵ 本書の概要

 本書の目次は以下のとおりです(各巻の章は省略)。

巻の一 奇跡の風

巻の二 ベインの町

巻の三 <聖なる町>

巻の四 天使の息吹

巻の五 槍の並ぶ庭

巻の六 南へ

  本書の舞台は、その地理的な位置づけがコンスタンティノープルを思わせる首都ベインを中心に、南北を海に挟まれて東西へと延び行く国土を持つオロンドリア帝国と、その遥か南の海に浮かぶ紅茶諸島です。オロンドリア帝国は、文化・風土が異なる幾つもの地域を併呑しつつ拡大してきた歴史を持ち、王の下に宗教色の強い統治が敷かれている国です。従来は王家の始祖たる女神アヴァレイへの信仰が盛んでしたが、現在の王の治世ではその信仰を否定する<石>の教団が正統と認められています。一方、紅茶諸島は東南アジアを想起させる熱帯の島々で、密林と霧の中、少数の神官、豪農を含む農民、漁労民等が共同体を作って暮らしています。

 本書は、主人公ジェヴィックの回顧録という形をとっています。紅茶諸島の一島で広大な胡椒農園を営む富農の次男として生まれ、知的障害を持つ兄ジョムに代わって農園の跡取りとなった彼は、父がベインから連れ帰ったオロンドリア人の家庭教師ルンレによってヴァロン、すなわち書物への愛を啓かれます。島で話される言葉には文字が無く、彼の人生は話し言葉の世界に属していたのですが、今や彼は書き言葉の世界への、そして書物に活写されるオロンドリアの地への思いを滾らせるようになります。

 父の死後、農園の主人として商売の采配を握るようになったジェヴィックは、ついに商用でベインを訪れる機会を得ます。その往路、彼は不治の病に侵された少女ジサヴェトと出会います。かつては患者が焼き殺されるほどに人々から忌み嫌われる遺伝性の病ーキトナを癒す微かな望みをかけて、彼女は母親らとともにオロンドリアへと向かっているのです。文字を知らないまま間もなくこの世を去ることになる彼女に、ジェヴィックは書物の効用ー記憶と違っていつまでも残る本の素晴らしさを教えます。

 ベインに到着した若旦那は、世界一の都が放つエネルギーに中てられたように、町、人々、そして本に熱中します。しかし、果てもないと思われたその興奮が頂点に達した<鳥の祭り>の翌朝、彼は突然ジサヴェトの幽霊に憑かれ、その運命が一変することになるのです。

 「自分の遺体は不適切にも土葬されてしまい、地に沈んで腐りゆく。このために自分の魂は幽明の境に留まっている。遺体を見つけ出し、火葬して昇天させてほしい。」「そして、自分のことを本に書き残してほしい。あなたが永久に消えないと言った、その本に。」この2点を要求する幽霊ーいわゆる「天使」の強い思いは、激烈な頭痛をはじめとする筆舌に尽くしがたい苦しみの底へとジェヴィックを突き落とします。しかし、<石>の教団の教義では天使の存在は認められておらず、ジェヴィックは、王宮が所在するベイン北方の<浄福の島>、その一角に精神病の患者として幽閉されます。

 書かれた言葉を崇高なものと捉え、壮麗な図書館を築き上げた<石>の教団が統べるかに見える<浄福の島>にはしかし、彼らの支配にしぶとく抵抗するアヴァレイ教団の一派が勢力を温存していました。彼らはジェヴィックに、民衆を集めた交霊の儀式ーいわゆる<夜の市>を開き、ジェヴィックが天使との交わりを誇示して、天使の実在、ひいてはアヴァレイ信仰の正統性を広く世に知らしめることに同意すれば、彼を島から脱出させてジサヴェトの遺体を引き渡す、という取引を持ちかけます。天使がもたらす苦しみから解放されることを期待したジェヴィックはこれを受け入れ、教団の大神官アウラムやその息子ミロスらとともに島を抜け出して、帝国中心部のファイアレイスから東部へと向かう旅が始まります。

 王朝の監視をかいくぐってなんとか<夜の市>の開催に漕ぎつける一行でしたが、まさにジェヴィックが交霊を行っている最中、王の軍が<夜の市>を急襲します。辛くも虐殺を逃れたジェヴィックやアウラム、ミロスは、帝国の更に東ー荒涼たるケステニヤへと逃避行を続けますが、ついに追手に捕捉されてしまいます。重傷を負ったミロスを連れたジェヴィックは、ケステニヤを彷徨った挙句、かつて王たちが一時滞在所として使っていた館の廃墟へと逃げ込みました。糧食も尽き果て、何も手を打たなければ死を待つのみという状況下、彼らが生きるための手助けー食べ物のありかや助けてくれる人々のもとへの道案内、そういった助力を天使が提供することの見返りとして、ジェヴィックはついにジサヴェトの本を書くことに同意します。

 廃墟の図書室でジェヴィックが書き留めたジサヴェトの生涯は、被差別民ー紅茶諸島における魂の象徴である人形「ジュート」を持つことができない最下層の民でありながら、好奇心と負けん気の強さで彩られ、賢明な父から多くのことを学ぶエネルギッシュなものでした。しかし、キトナの発症は全てを変えてしまいます。分けても、キトナが明らかにしたジサヴェト出生の秘密は悲惨なものでした。彼女は、母親がキトナの遺伝子を持つ海賊に拉致・監禁され、強姦された結果として生まれた子供であり、慕っていた父の実の子ではなかったのです。以後、ジサヴェトの家族は悲しみの中で自壊していき、一縷の望みにすがって治療のために北方へと旅立った彼女も願い叶わずその短い人生を閉じることになったのでした。

 この悲しい物語を書きつけるジェヴィックはしかし、執筆を通じて天使ージサヴェトと深く心を通じ合わせていきます。そしてミロスも大怪我からほぼ回復したケステニヤの春、かつて彼らを襲った追手から首尾よく逃れおおせていたアウラムがついに、ジサヴェトの遺体を携えてジェヴィックのもとにたどり着くのです。ジサヴェトへの想いに後ろ髪を引かれながらも、ジェヴィックは彼女の遺体を荼毘に付し、ここに彼女の魂はようやく天へと昇っていきました。

 その後ジェヴィックは、アヴァレイ教団や民衆たちー長らく書き言葉の勢力に支配されてきた人々が、<石>の教団に対する内戦を開始したことをアウラムから聞かされます。このとき彼は、<夜の市>が、王朝側による虐殺を引き起こして大衆に<石>の教団への復讐心を高めようとするアウラムたちの企みの一環であったことに気付きます。おそらくはジサヴェトの物語を執筆する過程で書物への愛が一層強まっていたであろうジェヴィックは、アウラムたちの書き言葉への挑戦を怒りとともに否定し、オロンドリアでの体験を通じて得た言葉に関する知見を胸に故郷へと帰っていきます。そして、文字を持たなかった紅茶諸島に書き言葉と書物を根付かせようと、知識の伝道師としての人生に入っていくのでした。

 

⑶ 本書の評価

 本書を次々とよぎっていく情景の作り込みは通り一遍でなく、その描写は時に沈鬱、時に華麗、いたるところに言葉のデコレーションが散りばめられています。本書がジェヴィックの回顧録という体裁をとっていることを考えると、修辞へのこだわりはジェヴィックの言葉への愛を反映したものということなのかもしれません。いきおい翻訳は相当な難事業であったかと思いますが、訳者の市田泉氏は、言葉の装飾と文意の明確さのきわどいバランスを崩さずに訳しきっているように思えます。

 しかし一方で、⑴で言及した「世界への没入」という期待については、あまり満たされたとは言えませんでした。多分に感覚的なその評価を綺麗に分析することはできませんが、さしあたり以下のような点が指摘できるかと思います。

 まずはジェヴィックのキャラクターでしょうか。今まで自分が読んできたファンタジー小説は、主人公に周囲から際立つ何かしらの特性が付与されていたように思います。ゲドしかり、ハリー・ポッターしかり、フロド・バギンズしかり、周囲よりあらゆる面で優秀というわけではないにせよ、彼らだけが有する特性と向き合い、時に葛藤することで、物語の焦点が彼らに当たる局面が出てきます。しかし彼らとは違い、ジェヴィックの個性は比較的薄く、ジサヴェトをはじめとする他の個性を描くための下地のような人物に見えます。もちろんそういう機能を果たす主人公がいても良いと思いますが、彼の印象がどうしても薄くなってしまったこともまた確かです。

 プロットに関して言えば、書き言葉と話し言葉の二項対立が一つの主題であることは間違いないでしょう。アウラムが言う「冷たい羊皮紙か、生きた肉か」(327頁)の対立ということです。しかし、この対立の深刻さの度合いというか、アヴァレイ教団が<夜の市>の虐殺を誘発してまで内戦に突き進むに至った理由がよく理解できないのです。例えば、アヴァレイを祭る<鳥の祭り>が首都ベインにおいてさえあれほど盛大に行われているというのに、<石>の教団による圧制が本当に広く行き渡っているのか?実際、<夜の市>の開催を目指してファイアレイス以東の地を旅するジェヴィック一行は、民衆の間で生き生きと受け継がれる口頭伝承の数々と出会うのです。このような状況下、話し言葉への書き言葉による圧殺が印象付けられる場面はついぞ無かったと言ってよいでしょう。

 また、本書にはこの二項対立よりさらに基本的な二項対立ー差別・被差別の関係が織り込まれているように思います。この点についてはジュートを持てない被差別民ホタンであったジサヴェトが典型的であるほか、知的障害を負って暮らすジョムと彼を矯正しようとする父、彼を侮蔑する義母、このような関係への言及もその現れであるように思います。しかしこの観点を導入するならば、オロンドリアにおいて書き言葉が話し言葉を圧迫しているという前提の下、本書中の被差別側が無意識に差別側に立ってしまう危険性を指摘しなければならないかもしれません。すなわち、ジサヴェトが「ヴァロンって何だかわかったわ」「ジュートよ」(312頁)と言う時、自身がジュートを持てないホタンとして差別されてきたにも関わらず、ヴァロン=ジュートとすることで、書き言葉を読めないオロンドリアの大衆たち(天使に全知性が備わっていることを示唆する記述は随所にあり、当然彼女にも非識字層の存在は認識できたはずです)をオロンドリアにおけるホタン側に追いやってしまっているように思えるのです。もちろん、この点はまだ未成熟な子供の誤謬ということに留めるべきなのかもしれませんし、あるいはジュートの絶対性を微塵も信じていなかったであろうジサヴェトがヴァロンに注ぐ道具主義的な眼差しの現れと捉えてもよいのかもしれません。しかし私には、差別・被差別の立ち位置が、無意識に、悪意でなく、容易く転換しうることを示唆しているようにも見えます。

 最後に、内容の評価から離れ、『図書館島』という邦題について検討しましょう。⑵で述べた粗筋からも分かるとおり、本書の世界で一見して「図書館島」と言えるのは<浄福の島>しかありません。本書の装丁もこのイメージに沿ったものとなっています。しかし、この島でジェヴィックが過ごす時間は重要ではあるもののあくまで<夜の市>の準備段階に過ぎず、しかも島での主要なイベントは話し言葉側であるアヴァレイ教団との邂逅なのです。したがって私は、本書を読んでいる間ずっと「この邦題は不適切」と指摘しようと考えてきましたー最終章においてジェヴィックがチャヴィ、すなわち賢者あるいは先生としての道を歩み始めるまでは。ここに至り私は、内戦がオロンドリアの書き言葉を破壊してゆく中、ジェヴィックの故郷ティニマヴェト島こそが、書き言葉の避難所、そしてヴァロンの保管庫、つまりは「図書館島」となった、ということではないかと考えるようになったのです。そして、私の考え方が正しいとするとこの邦題は、原題の直訳『オロンドリアの異邦人』よりも物語の顛末をさらに色濃く反映した良い題名である、と言うべきでしょう。

 

 

図書館島 (海外文学セレクション)

図書館島 (海外文学セレクション)

 

 

どうにかしようにも、どうしようもないーTruman Capote,『In Cold Blood』

※以下、小説の詳細な内容に関する言及があります。

 

⑴ 読書の背景

 アメリカ合衆国と言えば、その強大な国力、毀誉褒貶のある外交政策、複雑な政治・社会構造、煌びやかな文化といった色々な側面からしばしば議論や創作の対象に取り上げられる存在です。いきおい、私が読む本にも米国について論じるものが多く含まれてきました。

 しかし、私がこれまで読んできた本は、キャッチーなアメリカー例えば際立った個性の大統領たち、第二次世界大戦の米軍、あるいはウォールストリートの投資銀行、そして西海岸のITベンチャー、こういった事柄に焦点を当てるものにどうしても偏っていました。しかし、アメリカと言えど大衆の日常が集積して今の姿を形作っているわけで、その蓄積が放つ雰囲気のようなものに触れたいと、この頃は思うようになっています。

 では、そのような雰囲気を知る手がかりとは何か。ルポルタージュ、専門書、こういったものも有益でしょうが、こと「雰囲気」なる印象性、精神性が高い事柄となれば小説という手があるのではないか、それもできれば原文を直接味わってーこういった考えの下、著者の著名度やキャッチーさとの隔絶度合いを踏まえつつ選んだ幾つかのアメリカ小説の一つが、トルーマン・カポーティIn Cold Bloodです。

 

⑵ 本書の概要

 本書の目次は以下のとおりです。

PART ONE: The Last to See Them Alive

PART TWO: Persons Unknown

PART THREE: Answer

PART FOUR: The Corner

 本書の主題は、1959年の冬、カンザス州の片田舎で広大な農地を経営するクラッター一家を襲った凄惨な殺人事件の顛末です。クラッター氏は恨みを買うようなこともほぼなく、完璧ではないにせよそれなりに満たされた人生を家族とともに歩んでいるーその命運は突如、闖入してきた2人の強盗に喉を掻き切られ、あるいは至近距離から顔面を散弾銃で吹き飛ばされるという形で暗転します。

 強盗の名はペリーとディックと言います。社交的で平素は肝も据わっている、しかしいざとなれば冷静さを欠き、その実は殺人鬼からほど遠いタイプといってよいディックと、生来の身体障碍と陰惨な家庭環境の果て、夢見がちな性格に、おそらくは自身でも制御できない残虐性ーこれを残虐性と呼んでよいのでしょうか、むしろ一定の条件下で自動的に生起する淡々とした対人破壊衝動というか、そういう性質を備えるに至ったペリー、この2人は事件後にメキシコで今までの人生を根本から変えられるような新しい生活の実現へと挑み、その挑戦に敗れて祖国へと戻ることになります。そして、この流れと織りなすように、事件の地元で広がる波紋と、手掛かりを求める担当刑事の暗中模索ぶり、これらが平坦な筆致で描かれます。

 刑事たちの懸命な努力にもかかわらずペリーとディックを事件と結びつける証拠が全くもって見つからなかった中、かつて獄中でクラッター一家のことをディックに語ったという服役囚の証言が飛び出し、物語は急展開を迎えます。かつてペリーが暮らしたラスベガスで逮捕され、カンザス州捜査局へと引き渡される2人。刑事たちの追及に屈したのはディックでした。そして、カンザス州へと移送される道すがら、そのことを聞かされたペリーも、ついに現場で何が起きたのかを克明に語りだします。

 カンザス州に移送された2人は、司法の場に立たされます。もちろん世論は死刑を望み、陪審員たちが下した判決もそのとおりとなりました。一部の弁護士たちが判決の公正性を疑問視して適正な裁判をやり直すよう長期間に亘って求めるも、その努力は実ることなく、事件から約5年半後、2人は絞首刑に処され、ついぞ幸福に恵まれなかった各々の人生を終えることとなるのです。

 

⑶ 本書の評価

 カポーティは著名な小説家であり、そのバックグラウンドや従来の作品との比較において本書を分析・評価することが一般的なのかもしれません。しかし、私は⑴で述べたような動機で本書をピックアップして読んでいますし、カポーティ自身についての情報はインターネット上のそれ以上のものを持ち合わせていません。よって、ここではあくまで本書を単体の本として読んだ上での感想を書き留めておこうと思います。

 本書の特徴として、淡々とした描写ぶりが挙げられます。ドラマティック、ヴィヴィッド、こういった形容詞とは無縁の文章ーもちろん題材となったイベントは極めて衝撃的なものなのですが、筆致がどうもそうではないのです。本書はthe nonfiction novelとも形容されるようですが、読み手が小説としては冗長、あるいは退屈と捉えようが、ひたすらサブプロットの糸を時系列のリポート風に紡いでいき、複数のサブプロットを入れ替わり立ち代わり短いテンポで各節として前面に出し、そして各節の筆致はあくまで平板、こういった感じの文体です。

 しかし、こういった文体だからなのでしょうか、本書は題材とした事件における「どうしようもなさ」を明瞭に印象付けているように思います。クラッター一家は予想だにしない最期を遂げ、手を下したペリーの人格も生まれつきによる性格を強く受けている。事件の凄惨さは死刑判決への強力な潮流を作り、その中にあってディックが実際には手を下していないとの証言を徹底的に顧慮する者は誰もいない。そして、ペリーの半生と死刑との関係ー自身ではその形成はおろか発動についてもコントロールできない衝動による死刑は妥当なのか?しかし、無辜の4人が惨殺された状況下、下手人の自己コントロール能力が量刑においてどの程度考慮されなければならないのか?そのような重要な論点がしっかりと検討されることはもちろんなく、運命の道は死刑台へと続くのです。

 全ては淡々と流れていき、登場人物の能力によって左右することができない事柄であったように思われます。偶然、運命、社会構造、世論、制度ー本書において語られるこういった強力な潮流が、ある国に特有のものであるかと言われればそうではないようにも思えます。しかし、それもまたアメリカのー少なくとも、カポーティが感じたアメリカの「雰囲気」の一環だったのかもしれません。

 

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理性に寄せる愛の難ープラトン『国家』(藤沢令夫・訳)

⑴ 読書の背景

 哲学を始めようとするに当たり、藤本隆志『哲学入門』はよい入門書でしたが、もちろんそれだけで哲学的論点について検討ができるようになるわけではないでしょう。哲学という営為に不慣れである現状では、思考のとっかかりというか、そういうものが欲しい気がします。既存の議論を検討することは、そのような「とっかかり」として便利なものであるように思います。

 また、認識論や存在論ではなく、より倫理学的・価値論的な方向に自分の関心が向いているのではないか、という感触は得られましたが、より具体的な関心の方向性についても確認していきたいところです。

 これらを踏まえると、当然、過去の哲学者たちがどのような議論を展開してきたのかをおさらいすべき、ということになります。その方法としては、哲学史の本を通読することがあるいは手軽なものであるのかもしれません。しかし、上記のとおり「思考のとっかかり」を希求する場合、哲学的議論の通時的要約より、個別具体的な哲学書における議論の方が、より「とっかかり」として使いやすいのではないか、という気がします。また、実は若い頃に哲学史の本で哲学を概観しようとしたことがあるのですが、議論の理解、頭への定着、いずれも惨憺たる結果に終わってしまいました。

 よって、当面の勉強の方法として

① 自分の書棚にある原典を時系列順に読んでみる

② 時代・地域等による大まかな区分(例えば古代ギリシャ)に属する原典を読み終えたら、その区分に関する総合的な研究書に当たる

の2ステップを古代から現代に至るまで繰り返すことに決めました。

 中国やインドといった古い文明における思想も検討のスコープに含めるべきなのでしょうが、残念ながら現時点で私の書棚には関連書がありません。となると、さしあたっては古代ギリシャー特に古典を遺したプラトンアリストテレスが出発地点となりましょう。まずはプラトン、分量の観点からも、議論の著名度の観点からも、主著と位置付けられる『国家』(岩波文庫版)からです。

 

⑵ 本書の概要

 著者による目次はありません。岩波文庫版には、その冒頭に議論のまとまりによって区分した構成が付されています。しかし、より大まかな構成としては、訳者による解説で言及されたものが分かりやすいように思います。すなわち、本書では「正義論ー国家論ー哲人統治者論の根拠としてのイデア論ー国家論ー正義論という配置」(下巻487頁)にて議論が展開されるのであり、その中でプラトンは、師であるソクラテスの風味が漂う議論から発し、やがて彼独自の思想により議論を一層発展させようと試みているのです。

 本書における議論は、ソクラテスの口を借り、その知己である若者たちとの対話を擬して進められていきます。そこでは、正義とは何か、それを実現するために必要なものは何か、正義を実現することにどのような価値があるのか、といった論点についての検討が行われます。以下、上記の構成を「正義論Ⅰ-国家論Ⅰ-イデア論ー国家論Ⅱ-正義論Ⅱ」と略記し、各要素を要約しながら、この議論を追ってみます。

 まず、正義論Ⅰにおいては、正義の定義についての問答が行われます。その中では、「それぞれの相手に本来ふさわしいものを返し与える」(上巻30頁)こと、「強い者の利益になることを行うこと」(上巻57頁)といった定義が提示され、これをソクラテスが論駁します。

 次に、国家論Ⅰでは、正義論Ⅰでは結局のところ明らかにならなかった正義の定義を明確にする試みが始まります。その方法論としては、「より大きなもののなかにある<正義>のほうが、いっそう大きくて学びやすい」(上巻130頁)ことから、まず国家の正義を考え、その結論を個人の正義に援用するやり方が提示されます。そして、理想的な国家のモデルが検討され、知恵、勇気、節制、正義という4つの徳が定義されます。このうち正義とは、国家を構成する3種族たる「金儲けを仕事とする種族、補助者の種族、守護者の種族が国家においてそれぞれ自己本来の仕事を守って行う」「本務への専心」(上巻302頁)を意味します。プラトンは、このような国家の徳についての考え方を個人の徳へと援用すれば、個人の魂を構成する3つの要素ー理知的部分(支配者たるべき部分)、気概の部分(支配者の支援に当たるべき部分)、欲望的部分(前二者から監督されるべき部分)が「自分の内なるそれぞれのものにそれ自身の仕事でないことをするのを許さず、魂のなかにある種族に互いに余計な手出しをすることも許さないで、真に自分に固有のことを整え、自分で自分を支配し、秩序づけ」ること(上巻329頁)こそ、個人にとっての正義であると言います。そして、このような理想的モデルを可能な限り近似的に実現するためには、「哲学者たちが国々において王となって統治する…あるいは、現在王と呼ばれ…ている人たちが、真実にかつ十分に哲学する」(上巻405頁)ことが必要条件とされるのです。ここで言う哲学者とは、「美」「善」のような個物を超えた抽象的概念(イデア)を追求し、十分に理解することを愛してやまない者を指します。

 そして、プラトンは哲人統治論を根拠付けるイデア論へと筆を進めていきます。そこでは、統治者が学ぶべき最重要の事項は「善のイデア」とされています。では、「善のイデア」とは何か?ここで用いられるのが所謂「太陽の比喩」です。すなわち、「思惟によって知られる世界において、<善>が<知るもの>と<知らないもの>に対してもつ関係は、見られる世界において、太陽が<見るもの>と<見られるもの>に対してもつ関係とちょうど同じ」(下巻82頁)であり、「認識される対象には真理性を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが、<善>の実相(イデア)」(下巻83頁)であり、「認識の対象となるもろもろのものにとっても…あるということ・その実在性もまた、<善>によってこそ、それらのものにそなわるようになる」(下巻85頁)のです。

 プラトンは、このような「善のイデア」をはじめとするイデアの追求こそが、真理に最も近付くことができる方法であると言います。ここで用いられるのが「線分の比喩」であり、人間による認識・思考の明確性は①影像の認識、②個物の直接的な知覚、③仮説から論理的に結論を導く学術的思考、④仮説から始原的な真理への遡上を追求する哲学的思考、の順に高いことが説明されます。そして、人間、特に哲人統治者を段階④に至らしめるための教育を描写するために「洞窟の比喩」が導入され、①洞窟の中で影像を見る、②映像の元となるものを見る、③洞窟から出て外の世界を見る、④外の世界に関する認識を生む原因たる太陽を見る、という、前述の①~④の各段階と対応する説明が行われます。そして、哲人統治者は、最後の段階④に至るまで教育された後、洞窟の中に下り、段階①にある者たちを導かねばならないとされるのです。また、段階④に至るための教育は、思惟のみによってイデアを把握せんとする哲学的問答法(ディアレクティケー)によって完成されると言います。

 以上の議論を通じて、理想的な国家のモデル、その中で実現される正義のあり方、そこに近づくために必要な知識といったものが描き出されました。これらを踏まえた国家論Ⅱ・正義論Ⅱでは、モデルとは異なる形態の国制とモデルとの比較を通じ、正義と幸福との関係が論じられています。プラトンは、ある国の国制が、哲人が統治する優秀者支配制から、名誉支配制、寡頭制、民主制、僭主独裁制へと移りゆくさまを描写した上で、各国制に対応する人間の幸福・不幸を国政のあり方から考察しています。そして、正義が実現される優秀者支配制に対応する人間が最も幸福であり、最も不正な僭主独裁制に対応する人間が最も不幸であることを示しています。続いて、理想的な国家の建設における詩人の地位をイデア論に基づいて考察し、詩人はイデアからかけ離れた似像を描けるのみであることに加え、魂に不適切な作用を及ぼす存在であるから、理想的な国家から彼らを排除すべきと断じます。最後に、魂不死説が導入され、魂が歩む永遠の道程において正義の報酬がもたらされる旨が寓話によって説明され、本書における長い議論は幕を下ろします。

 

⑶ 本書の評価

 プラトンがここで展開している議論は多岐に亘ります。正直に言えば、一読してその全容をつかめているとはとても思えません。例えば、イデア論を理解しようとすれば本書の記述だけを読んでも到底不十分であり、この前後に書かれた他の本を参照しなければならないのでしょう。

 したがって、まずは本書中の議論が狙いを定める本質的部分に焦点を当てる必要があります。そして、私は訳者が「国家論を通じて<正義>の何であるかを問い、それと幸福との関係を問うこと、これが…本篇の中心テーマであるといわなければならない」(下巻468頁)と指摘する点は正しいと考えていることから、ここでは正義論の根幹をなす議論に着目したいと思います。すなわち、魂の三区分説です。

 ⑵で述べたとおり、プラトンは魂を理知的部分、気概の部分、欲望的部分の3つに区分し、理知的部分の支配を前提として各部分が自分の役割を果たし調和・秩序を保つことが正義であるとしています。この議論には色々な指摘が可能だと思いますし、これまでに多くの問題点が論じられてきたことでしょう。私が感じたのは「三区分説を前提にしたとして、理知的部分は本当に支配者たり得るのか?」という疑問でした。

 私の疑問は以下のようなものです。上記のような正義を体現する者として本書で想定されているのは、国家の理想的なモデルに近似した国制の実現に不可欠とされる哲人統治者です。彼または彼女は、哲学的な思索を通じて「それぞれのものについて、それ自体としてあるところのものに愛着を寄せる…<愛知者><哲学者>と呼ばれるべき人々」(上巻425頁)とされています。個別の具象に右往左往することなく、その背景にある抽象ー要はイデアの探求を愛する人々、ということでしょう。その探求に必要な能力は、もちろん理知的部分に属すると言い切ってよい。では、それを愛する性向はどの部分に属するのでしょうか?

 プラトンは「魂がそれによって理を知るところのものは、魂のなかの<理知的部分>と呼ばれるべきであり、他方、魂がそれによって恋し…その他もろもろの欲望を感じて興奮するところのものは、魂のなかの非理知的な<欲望的部分>」(上巻318頁)と言います。この定義を単純に適用すれば、「愛する」という性向は欲望的部分に属しているようにも思えます。もしそうだとすると、正義の実現にとって最も重要な「知恵の愛求」という営為を規律しているー少なくとも理知的部分と同等の支配力を持っているのは欲望的部分、と言わなければなりません。なぜなら、知的な能力を十分に備えている人であっても、それを愛し、熱中するのでなければ、哲学者とは言えないのですから。

 この主張に対しては、次のような反論があるでしょうー「愛する」という字面に引きずられると欲望的部分の支配という結論に至ってしまうが、その性向は理知的部分の補助者である気概の部分に属するものである。しかしそうであれば、今度は気概の部分が支配の座、少なくとも共同支配者の地位を獲得することになります。では「愛する」性向も理知的部分に含めればよいのではないか?そうすると理知的部分が魂を支配すると言い切れるでしょうが、今度は気概の部分という存在が不要になるでしょう。

 結局のところ、「ある部分が全体を支配する」という考え方が問題なのかもしれません。そもそも私は三区分説には否定的で、自我ープラトンが言う「魂」と同義と言ってよいと思いますーは、理性・欲望で構成される意識的部分とどのような構成になっているか分からない無意識的部分のそれぞれに外部からエネルギーが供給される、といった姿をしているように思っています。ただ、このような考え方を採るにせよ、魂三区分説を採るにせよ、本来的には複雑なシステムーこの場合は脳や人体との関係を決して切ることができない魂、あるいは自我ーを思弁的に分析して幾つかの構成要素に整理する際、全体のシステムが一つの構成要素によって律され、支配されるという議論が成り立つことはまず無いのではないか?一時的に少数の構成要素が大きな影響力を獲得することがあっても、それはシステムの性質として位置付けられるほどに基本的なものではなく、あくまで全体の相互作用とバランスこそがシステムを律しているのではないか?こういった思想が、おそらくはプラトンの主張に対する私の疑問の根底にある気がします。

 詩人追放論やイデア論から受ける印象では、プラトンが理性に寄せる愛はことのほか強かったのでしょう。それがために本書では魂が三つに分けられ、理性に他二者を統べる王座が与えられているのかもしれません。しかし、理性とは別の部分から理性に及んでくる影響を強く実感し、そしてその影響が人生によい影響を及ぼしてくれるー自分も体験し、そして多くの人も体験するであろうこういった感覚を考慮に入れる時、この正義論に普遍性を認めることは難しい、これが私の結論です。

 

 

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

 

形而上へのガイドブックー藤本隆志『哲学入門』

⑴ 読書の背景

 これから読む本を選ぶ時、私は明確な問題意識から読書の分野や特定の本を演繹することは滅多にありません。自分の書棚を見渡し、何となく気になった本、当面は没入できそうと感じられる分野、そういったものに手を伸ばすことが多いです。ただし、同時に私は、過去の思考や経験が無意識に及ぼす影響や、その無意識が行動に及ぼす影響は比較的強いものと信じています。したがって、「何となく」は過去のごった煮から滴る一滴の煮汁のようなものであり、その感覚には一定の根拠があるように思えるのです。

 今回、何となく哲学の本を手に取り、しばらくはこの分野に身を置いてみようと思ったのは、若年のみぎり、哲学をよく知ろうとしないまま、軽侮と後ろめたさをもって放擲したことに端を発しているのかもしれません。すなわち、自然科学的事実と数学的論理の厳密性に憧憬を抱き、これらを至上のものと信じた当時の私は、形而上の議論とみなした哲学をあっさりと切って捨てたのでした。しかしまた、自身が勉強を迫られ、あるいは好んで本を読む様々な分野ー例えば法学、政治学歴史学文化人類学といった学問において、哲学上の議論がしばしば前提として登場し、それらを前提であるがゆえによく分からないながら受容せざるを得なかったことに、ぼんやりとした情けなさを感じていたことも覚えています。加えて、その後の人生で紆余曲折を経る中にあって、自分の心情も大きく変化し、高度に形而上的なテーマである幸福、あるいは価値、こういったものをしばしば追求するようになったこと、これも今回の選択に影響しているのかもしれません。

 ともあれ、大学の授業で聞き流し、あるいは数冊の本を気ままに読み散らして得た哲学の知識は全て脳内から散逸しており、再びその門を叩くところから始めなければなりません。自分の書棚にあった入門書は、藤本隆志『哲学入門』とバートランド・ラッセル『哲学入門』の2冊でしたが、後者は過去に読み散らした数冊の一つであることもあり、今回は前者を手に取ることにしました。

 

⑵ 本書の概要

 本書の目次は以下のとおりです。

序 哲学とは?
Ⅰ 人間(人間とは何か;〈私〉はいつ人間になったのか;論獣かつ倫獣としての人間;〈私〉と「人間」)
Ⅱ 世界(存在;われわれに与えられたもの;「もの」と「こと」;時空)
Ⅲ 知識(体験知と記述知;信念と知識;意味の追求)
Ⅳ 行為(行動と行為;知識と行為;事実と当為;経験と当為;理想追求型の近代的行為とその結末)
Ⅴ 価値(価値の諸相;体験される価値;価値的性質と自然的性質;追求される価値)
結 再び哲学とは?

 本書は「哲学の旅行案内書」であると謳っています。哲学の大まかな見取り図を示し、議論の雰囲気を感じさせ、読者が自分の興味の方向性を知る手助けをする、そういう意味でしょう。

 最初に著者は、哲学とは智を探求する営為のことを指すのであって、特定の知識体系のことを指すのではない、という最も基礎的な留意点を強調します。その上で、哲学的議論の対象となっている諸分野から幾つかを選び出し、それぞれについて著者の立場から議論を展開していきます。

 例えば、Ⅰにおいては人間や「私」とは何かが論じられます。そこでは、物理的な存在としてのヒトは、生存に必要な弁別能力を言語能力を備えることで獲得し、同時に言語能力を通じて社会性を獲得することで、論獣・倫獣としての人間になるとされます。そして著者は、その人間として偶然に生まれついた「私」は、人間たる自分の生を自分で主体的に切り拓かねばならないとし、「私」を哲学的議論の中核として位置付けます。

 また、Ⅴでは価値論が取り扱われます。著者は、それが窮極的には「私」が生きる目的であるところの「よく生きる」ことと密接に関係していることから、価値論に対する「最重点の哲学的関心」を表明しています。そして、高次の全体的性質として「よさ」の概念を定義した上で、「私」が生きる世界を価値に満ちたものとすることで「よく生きる」ことができるとするのです。

 この他、存在論に関する議論(現象の始原性と、当該現象を言語によって彫琢した事実の重要性を強調)、知識論に関する議論(主格の区分を厳格かつ単純に適用することへの批判、他者と適切な関係性を維持することの必要性等について言及)、行為論に関する議論(存在と当為のギャップを経験概念の導入で埋め、それによって理想主義的な近代的当為に加えて具体的苦痛の阻止を目的とする当為を導入しようと企図)が展開されています。

 

⑶ 本書の評価

 著者が展開する議論の細部には違和感を感じる部分も少なくありません。具体的には、「〇〇である場合が存在するのであれば、一般的に××である」という類の飛躍が見受けられることや、しばしば個物を議論の対象とするがゆえに経験や概念に対して当該議論を適用できないのではないかと思われる場合があること(特にⅤにおける価値論)等が挙げられるでしょう。

 それにも関わらず、同じくⅤにおける議論を借用すれば、本書を全体として評価すれば私にとって「よい」本だったということになります。それは、本書が「旅行案内書」としての役割をよく果たしてくれたように思うからです。

 例えば、「哲学とは、智を愛求する営為のことであり、特定の学問分野のことではない」という、恐らく学堂・市井を問わず哲学者なら当然と思っているのであろう点の明確な指摘。哲学を特定の知識体系とばかりイメージしていた私にとって、これから歩いていく方向を修正する重要な示唆であったと言えるでしょう。

 あるいは、「私」を議論の中心に据える観点の提案。主客の区分の厳格な採用と後者への高い評価を続けてきた私の思考に対する対案と言えるものであり、これをどう位置づけるか、一つの予定が組まれたと言っていいでしょう。

 そして、哲学的議論の各分野について、その雰囲気を大まかにでも味わう機会の提供。自分がどの分野に関心を持つかを認識できたこと、すなわち認識論・知識論ではなく価値論に惹かれることの自覚、これにより当面の目的地を設定できたということになります。

 そして何より、読後に「しばらくこの分野の本を読んでみようかな」という気にさせてくれたこと。偶然ながら自分の気質にそぐう入門書であったと言うべきであり、この幸運を得た以上、「哲学」という営為が私にとってどのような意義を持つものであるのか、しっかりと学び、しっかりと吟味していかなければなりません。

 哲学的議論が帯びる様々な側面のうち、論理性、厳密性に惹かれて哲学を志す向きには、あるいは他の入門書ー例えばラッセルの『哲学入門』が適切かもしれません。しかし、少なくとも何らかの理由で形而上性を志向し始めたゆえに哲学の分野に入ろうとする人にとって、本書はよい導入となってくれるものと思います。

 

哲学入門

哲学入門

 

 

 

はじめに

 このブログは、私が読んだ本の内容を私の頭に定着させることを目的としています。

  業として本を読むのではなく、あくまで趣味として、あるいは何らかの知見を広げる補助として私的に本を読む場合、その内容を頭の中に留め置くことに苦心することが多い気がします。新しい本を開く欲求と精読への義務感の葛藤、読書時間の細分化、脳の処理能力を議論の理解へ集中することで生じる意識的な批判の欠如…単に本を読み、線を引き、少し書き込みをするだけでは、これらの障害を乗り越えて内容を頭に定着させることができなかったように思えるのです。

  よって、本の内容について明確な文章を書ける程度の読解を自らに促し、自分の理解を頭の中から画面の上へと引きずり出してその姿を吟味し、理解への集中から頭を解き放つ時間を得て本への批判を可能にする、このような目的のためにブログを始めることに決めました。