どうにかしようにも、どうしようもないーTruman Capote,『In Cold Blood』

※以下、小説の詳細な内容に関する言及があります。

 

⑴ 読書の背景

 アメリカ合衆国と言えば、その強大な国力、毀誉褒貶のある外交政策、複雑な政治・社会構造、煌びやかな文化といった色々な側面からしばしば議論や創作の対象に取り上げられる存在です。いきおい、私が読む本にも米国について論じるものが多く含まれてきました。

 しかし、私がこれまで読んできた本は、キャッチーなアメリカー例えば際立った個性の大統領たち、第二次世界大戦の米軍、あるいはウォールストリートの投資銀行、そして西海岸のITベンチャー、こういった事柄に焦点を当てるものにどうしても偏っていました。しかし、アメリカと言えど大衆の日常が集積して今の姿を形作っているわけで、その蓄積が放つ雰囲気のようなものに触れたいと、この頃は思うようになっています。

 では、そのような雰囲気を知る手がかりとは何か。ルポルタージュ、専門書、こういったものも有益でしょうが、こと「雰囲気」なる印象性、精神性が高い事柄となれば小説という手があるのではないか、それもできれば原文を直接味わってーこういった考えの下、著者の著名度やキャッチーさとの隔絶度合いを踏まえつつ選んだ幾つかのアメリカ小説の一つが、トルーマン・カポーティIn Cold Bloodです。

 

⑵ 本書の概要

 本書の目次は以下のとおりです。

PART ONE: The Last to See Them Alive

PART TWO: Persons Unknown

PART THREE: Answer

PART FOUR: The Corner

 本書の主題は、1959年の冬、カンザス州の片田舎で広大な農地を経営するクラッター一家を襲った凄惨な殺人事件の顛末です。クラッター氏は恨みを買うようなこともほぼなく、完璧ではないにせよそれなりに満たされた人生を家族とともに歩んでいるーその命運は突如、闖入してきた2人の強盗に喉を掻き切られ、あるいは至近距離から顔面を散弾銃で吹き飛ばされるという形で暗転します。

 強盗の名はペリーとディックと言います。社交的で平素は肝も据わっている、しかしいざとなれば冷静さを欠き、その実は殺人鬼からほど遠いタイプといってよいディックと、生来の身体障碍と陰惨な家庭環境の果て、夢見がちな性格に、おそらくは自身でも制御できない残虐性ーこれを残虐性と呼んでよいのでしょうか、むしろ一定の条件下で自動的に生起する淡々とした対人破壊衝動というか、そういう性質を備えるに至ったペリー、この2人は事件後にメキシコで今までの人生を根本から変えられるような新しい生活の実現へと挑み、その挑戦に敗れて祖国へと戻ることになります。そして、この流れと織りなすように、事件の地元で広がる波紋と、手掛かりを求める担当刑事の暗中模索ぶり、これらが平坦な筆致で描かれます。

 刑事たちの懸命な努力にもかかわらずペリーとディックを事件と結びつける証拠が全くもって見つからなかった中、かつて獄中でクラッター一家のことをディックに語ったという服役囚の証言が飛び出し、物語は急展開を迎えます。かつてペリーが暮らしたラスベガスで逮捕され、カンザス州捜査局へと引き渡される2人。刑事たちの追及に屈したのはディックでした。そして、カンザス州へと移送される道すがら、そのことを聞かされたペリーも、ついに現場で何が起きたのかを克明に語りだします。

 カンザス州に移送された2人は、司法の場に立たされます。もちろん世論は死刑を望み、陪審員たちが下した判決もそのとおりとなりました。一部の弁護士たちが判決の公正性を疑問視して適正な裁判をやり直すよう長期間に亘って求めるも、その努力は実ることなく、事件から約5年半後、2人は絞首刑に処され、ついぞ幸福に恵まれなかった各々の人生を終えることとなるのです。

 

⑶ 本書の評価

 カポーティは著名な小説家であり、そのバックグラウンドや従来の作品との比較において本書を分析・評価することが一般的なのかもしれません。しかし、私は⑴で述べたような動機で本書をピックアップして読んでいますし、カポーティ自身についての情報はインターネット上のそれ以上のものを持ち合わせていません。よって、ここではあくまで本書を単体の本として読んだ上での感想を書き留めておこうと思います。

 本書の特徴として、淡々とした描写ぶりが挙げられます。ドラマティック、ヴィヴィッド、こういった形容詞とは無縁の文章ーもちろん題材となったイベントは極めて衝撃的なものなのですが、筆致がどうもそうではないのです。本書はthe nonfiction novelとも形容されるようですが、読み手が小説としては冗長、あるいは退屈と捉えようが、ひたすらサブプロットの糸を時系列のリポート風に紡いでいき、複数のサブプロットを入れ替わり立ち代わり短いテンポで各節として前面に出し、そして各節の筆致はあくまで平板、こういった感じの文体です。

 しかし、こういった文体だからなのでしょうか、本書は題材とした事件における「どうしようもなさ」を明瞭に印象付けているように思います。クラッター一家は予想だにしない最期を遂げ、手を下したペリーの人格も生まれつきによる性格を強く受けている。事件の凄惨さは死刑判決への強力な潮流を作り、その中にあってディックが実際には手を下していないとの証言を徹底的に顧慮する者は誰もいない。そして、ペリーの半生と死刑との関係ー自身ではその形成はおろか発動についてもコントロールできない衝動による死刑は妥当なのか?しかし、無辜の4人が惨殺された状況下、下手人の自己コントロール能力が量刑においてどの程度考慮されなければならないのか?そのような重要な論点がしっかりと検討されることはもちろんなく、運命の道は死刑台へと続くのです。

 全ては淡々と流れていき、登場人物の能力によって左右することができない事柄であったように思われます。偶然、運命、社会構造、世論、制度ー本書において語られるこういった強力な潮流が、ある国に特有のものであるかと言われればそうではないようにも思えます。しかし、それもまたアメリカのー少なくとも、カポーティが感じたアメリカの「雰囲気」の一環だったのかもしれません。

 

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